脱安心





世界を旅していてふと気づいたことのひとつは、
「安心・安全」という言葉にほとんど出合わないことでした。

日本に帰ってくると、あまりに日常的に耳にするので、
逆に違和感を感じ始めてしまうほどでした。

その矢先に原発事故をはじめ、
「安心・安全」の崩壊としか思えない惨事が頻発してゆきました。
つい先日も、笹子トンネルで崩落事故という惨事があったばかりです。


世界と比べてもあれほど「安心・安全」が人々の口癖だった国で、
これは一体どういうことなのでしょうか。


そしていま、総選挙で政党が乱立していますが、
政党の主張を聞いても街の声を聞いても、
やはり「安心・安全」のことばかりです。

政党も「私たちが安心・安全を実現します」と言うし、
街の声も「安心できる社会を実現してほしい」と言う。

つまり大方の認識は、「安心・安全」は国がするもので、
私たちはそれを享受する側だということになります。


しかし僕の違和感は、そこにこそあるのです。


そういう意識だからこそ、
「安心・安全」が崩壊しているのではないかと思うのです。

「安心・安全」は国がつくるもので、
私たちはそれを享受する側だという前提が
当たり前であればあるほど、今後も惨事が絶えない気がしてなりません。

いま日本人が知らなければならないのは、
「安心」と「安全」が
必ずしもイコールではないことではないかと、僕は思います。


たとえばあなたが、
福島第一原発や笹子トンネルのように、
今後、崩壊や大事故の恐れがある
老朽化した建造物を建てた会社の社員だとしましょう。

「安全」でいうならば根本的なメンテナンスでしょう。
しかしお金がかかります。
この不景気に、いまその経費が発生すれば
会社がもたないなんていうケースもあるかもしれません。

そのとき、下手をすると
少額のメンテナンスで済ませられればほっと「安心」、
ということにならないとは限りません。


ですから、「安心」と「安全」は、必ずしもイコールではないのです。


いたずらに「安心」と「安全」をセットで考えることは、
むしろ「危険」だということができるかもしれません。

そしてもしかすると、いまの日本というのは、
この「危険」が次々と表面化している時代なのかもしれないと思えてなりません。
 
いま私たち日本人に必要なのは、
脱原発よりも脱官僚よりも前に、
「脱安心」なのかもしれません。

そしてそれこそが、脱原発や脱官僚の、唯一の実現方法なのかもしれません。

クレイジー



朝日ニュースターの番組『ニュースの深層』に、
映画『friend after 3.11』の出演者でもある
藤波心さんが登場していた。

脱原発を宣言したドイツに招かれた時に、市民から
「原発事故を起こした国が脱原発しないなんて、クレイジーじゃないか」
と方々で言われたそうだ。

ドイツが脱原発を宣言した時、
僕もなんて皮肉な話だろうかと思ったが、
それは僕がNHKを通して国内外を見聞する機会を与えられたからで、
日本にそのまま住んでいたら、そのクレイジーさはわからなかったかもしれない。

念を押す。
いまの日本の原発再稼働への動きは、異常である。
外国人から見なくても、海外経験がなくても、普通に考えれば異常である。

僕はその異常さを『楽観病』と呼んでいるが、
僕ら日本人が、それを自分で感じるようにならなければ、
そんな名前をつけることに何の意味もない。

『楽観病』とは、事実を良いように見ることである。

それは前向きではない。
いい加減それは古いのだ。

事実自体に興味を持つこと。
暗くても臭くてもネガティブでも、
事実ならそれをちゃんと踏まえることだ。

それができなければ、日本は滅ぶ。
じつにシンプルなのだ。

『深化』
〜日本の技術力の特徴〜



これまでに出会った武藤教授や橋本会長らの技術は、
当然のことながら、あり余る資源を前提としたものではない。


東北のクライシスを一つの契機として動き出した僕たちにとって
当たり前すぎる前提だが、重視しなくてはならない。


どう重視すべきなのか。


じつは彼らの技術は、「進化」以上に
「深化」の特徴を帯びている点だ。


この両者の差がどう重要なのかというと、
「深化」のほうが数段価値が高い。


経営の話でわかりやすく言うならば、
たいした理念のない起業者が、時流を当てて大儲けした場合、
収益的な結果だけ見れば、会社は「進化」したことになってしまう。
しかし、時流が過ぎた後も持ちこたえるには、
この数字上のものでしかない「進化」は全く無力で、
起業者の理念の一段の「深化」が必要になってくるだろう。
それが成功した場合、もう一段の「進化」がありえてくるわけだ。

つまり、じつは「進化」はあくまでも結果論であり、
実体的ではないということである。

実体は「深化」なのだ。
「深化」は「進化」なしでもあり得るが、
「進化」は「深化」なしにはあり得ないのだ。

20世紀の発展は、
あり余る資源を前提とした直線的な「進化」だったわけだが、
そのツケが原発事故、環境汚染、
世界経済の行き詰まりとしてかえってきている時点で、
「進化」ではなかったという議論さえ成立してしまう。

何をもって「進化」とするかの熟慮・呻吟、
すなわち「深化」のない結果論でしかなかったからだ。

はなからあり余る資源が前提ではなかった日本は、
早くから無自覚に「深化」をしてきた、
あるいは「深化」を余儀なくされてきた部分がある。

それが東北のクライシス以降に出会うこととなった
武藤教授や橋本会長らの技術に
特徴的に反映されている点は、実に重要なのだ。

僕ら「ZERO」プロジェクトは、
今後の展望を探る立場からも、
この「進化」と「深化」を分けて洞察しなければならない。


そして、「深化」にこそ
その答えを探してゆかなければならないのだ。


仮にその判別が難しくても、結果論としてそうなるだろう。
というのは、そもそも僕ら自身が、調査する時に
そのアイデアや技術が「深化」に根ざしているかどうかで、
信憑性や、有用な情報かどうかを感じている部分があるからだ。


この、漠然と感じている信憑性・有用性の有無に名前や文章をつけると、
「ただの『進化』か、『深化』に裏付けられた『進化』かの差」
ということになるだろうと思う。

そして、そこに矛盾を感じる日は、結局こないと思うのだ。

『食』
〜目指すべき手本〜



では、日本が鈍感・楽観から脱して目指すべきこととは何だろうか。

その答えは、日本が既に出来ていることの中にもある。
それが、日本の「食」。

いま、海外からの評価もうなぎのぼりの和食。
海外旅行で驚かされたのが、僕が行った範疇では
いまやお箸を覚束なく持つ国がなかったこと。

中国料理や韓国料理の影響を考慮しても、
それが和食の影響だろうと思えるのは、
つい最近まで覚束ない国が多かったことだ。

突然なのだ。
突然、普通にみんながお箸を使いこなすようになったのだ。

その背景には、どうしても中国料理や韓国料理ではなく、
和食の急激な浸透があると言わざるを得ない。

『和食=寿司』のイメージも卒業しつつある。
それ以外の日本料理にも興味を持ちはじめているのだ。

日本人である僕の感想でも同じことが言える。

海外に行って和食に飢え、「お寿司が食べたい」と言う人は初心者。
そのうち、日本の洋食にさえ飢えるようになる。
たとえば、アメリカやドイツで分厚い肉ばかり食べさせられているうちに、
しゃぶしゃぶのように薄い肉が食べたくなるのだが、
それにとどまらず、僕のように酷い例だと、イタリアのパスタよりも、
地元のパスタのほうが数十倍おいしく感じてしまうようになる。

しかし、それもまんざら日本人ならではの症状ではないらしく、
NHKCOOL JAPAN』に出演している外国人たちも
外国料理を日本で食べると、日本のほうがおいしい場合が多いと口を揃える。

これはもはや事件だ。
そこまで世界を網羅し、凌駕する料理など、世界のどこにあろうか。

じつはこの和食が、今後の日本における課題の雛形そのものなのである。

鈍感・楽観病の短所とは、長所でいうと『尊敬力』。
海外のものを、日本人ほど尊敬をもって
受け入れられる国民は他にいないのだ。

それが結果としてとんでもない結果を生み出したのが、
「食」の分野だったということなのだ。

ということは、残るは「衣」と「住」ということになるのだろうか。
仮にそうだとすると、我々の取り組みもそうであるように、
いま特に「住」の深化が急がれているという見方も出来るだろう。

日本人がさまざまなものを自身で体感して尊敬し、受け入れた結果、
世界の縮図とも言い得るほどにまで昇華した「食」に対して、
「住」は全くの逆、初歩といっていい段階にある。

多くの日本人は、この論に対して、
「そもそも海外とは気候が違う」とか、
「価格が違う」などと反論するが、
それは「食」でも言えたはずの障害なのだ。

いま「住」で色々と調べているように、
「食」もある意味で「温度差」であり「湿度差」。
いわば気候差的なものなのであり、
「住」のカテゴリーで取り組まなくてはならないことと、
本質的に何ら変わらないのだ。

このことを踏まえると、僕ら日本人の「住」も、
「食」と同じ経緯を辿り、昇華する必要性と、
昇華できる可能性とが、本来備わっているという見方は、
全くの絵空事ではないのだ。

まず、「食」に比べて人任せすぎる。

次に、「気候が違う」と言いながら、
アメリカのものは無批判にとり入れすぎる。
あるいは、アメリカ以外のものとなると、
一般にはイタリアやフランス、ドイツくらいしか
メジャーではなく、勉強が足りないと言ってもいい。

もっと世界の建築を一般化すること、
もっと日本建築自体を一般化することが必要だ。

この二者は、立体的にものを見る力があれば矛盾ではない。

ここで言う日本建築とは、
和風のイメージに限定された平面的なそれではなく、
むしろ世界を尊敬し、受け入れる能力を言うからだ。

じつはもともと日本建築とは、
その時代なりに世界を受け入れ、
矛盾させずに凝縮させて来た世界の縮図、
日本人の『調和力という知恵』そのものなのだ。

それが、一時代を過ぎると、
大正昭和の和洋折衷建築のように、
洋風に見えた当時よりも一段和風に見えてくるというのが、
和風というイメージの正体・仕組みであることに着目すべきであろう。

外国一カ国だけではなく、世界全部を受け入れ、調和させるというのは、
奇抜な取り組みどころか、日本の伝統そのものだった。

我々の取り組みは、まさにこれと同根なのである。

いずれ、なんらかの形で
「住」を「食」から学ぶという
コンテンツやカテゴリーはアリだろう。

そうすることで、直接「住」にまつわることを
調べるだけでは見えて来ない「雛形ハウス」の輪郭が
明瞭になる可能性は、決して低くないはずだ。

『大の傾向』
〜「かも知れない」の設定レベル〜



最近の自然災害は、頭に「大」がつくものばかり。

2011年に起きた東北の震災でも、
地震が「大」地震、津波が「大」津波だったことは言うまでもないが、
和歌山の洪水も「大」洪水、
豪雨もタイでは国が沈むほどの「大」豪雨、
国内外の寒波も「大」寒波、
最近の夏も猛暑の上の猛暑の「大」猛暑と言っても過言ではない。

過去のデータに鑑みれば、
SFのようなことがいま現実に次々と起きている以上、
このプロジェクトにおける「かも知れない」の設定レベルは、
少なくとも向こう5年は「大」にしておく必要があるだろう。

ほかにも、たとえば富士山などの火山噴火。
この恐れを「大」噴火にしておく必要があるだろう。

また、NASA2009年に発表した、今年の太陽風のフレア。
これも「大」フレアにしておく必要があるだろう。

そのうえで、何を準備しておくのが現実的なのかを割り出してゆく。

『かも知れない運転』
〜本物の“前向き”になるために〜


免許の講習で習う「だろう運転」ではなく
「かも知れない運転」というキーワード。

「多分何も飛び出しては来ないだろう」という前提ではなく、
「何か飛び出して来るかも知れない」という前提で安全運転しましょう
という意味だが、それを聞いた時、車の話にとどまらないなと感じた。
いまの日本や、僕ら日本人はどちらだろうか。

起きてしまったさまざまな出来事たちを振り返る限りは、
明らかに「だろう運転」ではないだろうか。

ご承知のことと思うが、「だろう」とは、
「見込みの甘さ」や「想定外」のことである。
「根拠なき楽観」や「鈍感」のことでもあるだろう。

問題は、
見込みを厳しくしようと奮闘した結果、見込みが甘かったのではなく、
見込みを甘くしておきたい、想定したくない僕らがいること。

すなわち、確信犯である点だ。

しかも、それをはっきりと覚えていないこと、
それがどう問題なのかも甘く見ていること、
ともすれば、マイナス面を見ないことを「前向き」だと
勘違いしていることが、問題を致命的なものにしている。

もちろん、何でも想定すべきだといっているのではない。
想定し過ぎれば、何もチャレンジできなくなるのも事実だからだ。

すべきなのは、どんな「だろう」を選んだのかを覚えておくこと。
すると、良からぬ何かが起きても、原因がわかるので
他人のせいにしなくてすむ。
いつも頭の整理がついているから、修正がきくこともある。

いまの日本や僕ら日本人が、
自分たちが選んだ「だろう」を記憶しているとは思えない。

自分に起きている出来事が、
自分が投げかけた結果であることもわかっていない。
次なる危機の準備は、全く整っていない。

それを、僕が僕の人生において気づき、行動してゆく。

『脱 鈍感』
〜第二の坂本龍馬を創出するために〜



問題は、問題を知らなければ解決できない。

当然のことに思えるけれど、
はたして日本にはそれができているだろうか。

「見込みの甘さ」や「問題の先送り」という言葉が次々と飛び出す始末。
これらの言葉は、問題を捉え切れていないことを表している。

では、僕ら日本国民一人一人のレベルでは、それができているだろうか。

「見込みの甘さ」から問題を起こした、
「最低でも県外」発言の首相も、
原発の重大事故を起こした東電社員たちも、
証拠でっち上げの検察官たちも、
通信障害を繰り返したNTTドコモ社員たちも、
センター試験で配布ミスを起こした職員も、
僕らと同じ日本国民だ。

すなわち、見込みの厳しい国民からは、見込みの厳しい彼ら、
見込みの甘い国民からは、見込みの甘い彼らしか
輩出できないということではないだろうか。

ここ数年、全国を訪ねたときによく耳にしたのが、
「坂本龍馬みたいな政治家が出てこないだろうか」という発言だった。

僕はその発言にこそ、
坂本龍馬みたいな政治家が出てこない原因が集約されていると感じた。

忘れてはならないのは、
志士・坂本龍馬は、彼と同様の気概を持った志士、
あるいは彼を生み育てられるだけの
彼以上の志士が多くいた日本から生まれたということだ。

「坂本龍馬が出て来ないかなぁ」と言っている
僕たちからは、決して生まれないのである。

あるいは、坂本龍馬の種を殺してしまうことになる。

最近では橋下大阪市長が人気を集めている。
けれど僕ら一人一人が訪れるチャンスや危機を鈍感に受けとめ、
現状に楽観して事態を先送りし、手遅れの頃になって慌てて
場当たりな対応をすれば、低水準な結果ばかりが生まれてしまう。

その悪循環に気づくことなしに彼にあやかれば、
橋下氏が有能かどうかと関係なく、低水準な結果が待っているだろう。

「管轄」や「立場」の枠をはみ出す一個人の創出は、
鈍感を脱する取り組みと同じ意味を持つのである。