『一個人』
〜いま本当にすべきこと〜


このプロジェクトは、
一個人というものが、世界をどこまで受けとめ、
どこまで行動し得るかを試してみようというもの。

これまで、
経済のことはその関係者が、
政治のことは政治家が、
外国のことは外交官や国際関係者が、
電気のことは電力会社が、
家のことは建築家や建設会社が、
病気のことは病院がするものだと
思って生活していた。

しかし、いま起きている
さまざまで深刻な事態を見ていると
その前提が本当に機能していたのだろうか、
それが本当に絶対のスタンスなのだろうかと思わされる。

文明の発展と分業化、専業化はセットのもの。
日曜大工のお父さんも消えてゆくもの。

しかしその反面、「管轄外」という意識が広がり、
携わる仕事やプロジェクトでも他の人の顔を知らなくなり、
恊働意識が下がったりもする。

そして「管轄外」のことに、ことさらに弱くなったりもする。
かくいう自分も、まさにそんな時代の申し子の一人だ。

これまでの海外旅行の体験を踏まえても、
とくに日本はその傾向が強く、
無関心や鈍感、根拠なき楽観の空気感が実に強い。

そしていま、次々に起きている深刻な事態は、
みごとにそれが原因と思われるものばかり。

しかしもはや、いくら政治を批判しても、
尖閣問題の関係者を責めても、東電や九電を攻撃しても、
耐震偽装の建築家を糾弾しても、
医療ミスを起こす病院を嘆いても、事態は好転しない。

簡単に好転するほど単純な問題は、もはや日本に存在しないということだ。

そこで僕が思うのは、一見もっともニッチに見える、ある取り組みの必要性。

僕ら国民一人一人が、「管轄」「立場」の枠を再びはみ出す訓練だ。

自分なりでいい。
あらゆる事態を「自分事」として受け入れ、
考え、行動してみる一個人の創出だ。

当然、はじめは素人のような結果になるだろう。
人によっては危険な思想になってしまうかも知れない。

しかし、そうした一個人が増え、関わり、
学び合うことで、成長や発展は見込めるものだ。

自分たちの管轄、立場から出ることもなく、
ただ他の管轄、立場の人をなじり合っているような
日本の窮状を鑑みると、むしろこの取り組みは、
純粋な「コミュニケーションの復活」ではないかとさえ思うのだ。

一人の人間が、自分の枠を超えて、
どこまで世界の全体を受けとめ、自分なりの行動にしてゆけるか。

一見もっとも遠回りでニッチな取り組みに思えるけれど、
混迷する社会の根源的な原因に直結するような、
いまの日本にもっとも必要な取り組みではないかと思うのだ。

その一個人のひな形に、まず僕がなってみる。
それが、この「ZERO」プロジェクトなのだ。