未来をどうしたいか


「未来をどうしたいか」

それは、「未来をどう生きたいか」ということ。

「これまでの生活・仕事をどう変えたいか」
そして、「これまでの自分の何をどう変えたいか」ということ。

これまでのように、訪れる事態に対して
なんとなく、いつものように応対してしまうのではなく、
あらゆる可能性を想起して行動できるようになりたい。

たとえば
これからの日本のエネルギーについて、
誰かに「原発しかないでしょう」と言われると、
すぐに「そうだろうなぁ」と思ってしまっていた自分が、
これからは、「本当にそうだろうか」と思えるようになるということ。

あるいは
「地熱があるじゃん。日本は地熱が豊富な上に、
原発に劣らない発電が可能で、しかも廃棄物は
水だけなんだから、そっちでいくべきでしょう?」
と言われると、すぐ地熱発電に好印象を抱いてしまう自分が、
「じゃあ、なぜ地熱がメジャーになっていないんだ?」
と思えるようになりたい。

つまり、あらゆる可能性とは、
不可能や危険性も含むわけで、
「前向き」そうなことや
「好印象」なことだけをいうのではない。

何が不可能かを知らなければ、
何が可能なのかもわからないからだ。

つまり、「前向き」そうなことや
「好印象」なことのぶんだけ、
「後ろ向き」そうなことや「悪印象」なことも
受け止められるようになりたいということだ。

エネルギー問題に限らず、あらゆることに
そうした発想で臨めるようになりたい。

それを、死ぬまで貫けるようになりたい。

そして、重要なのが次のステップ。

その「原発以外のもの」や「地熱の問題点」を
自ら知ろうと行動すること。

これまでの我々日本人は、あまりにも当たり前に
「それは誰か専門家がやること」と片付け、評論だけしてきてしまった。

しかし、最終的にそれで発生する電気を使うのは
我々自身なのだから、本来、それを知る義務があったはずなのだ。

もちろん、僕のような素人ひとりができることには、
相当な限界があるだろう。

しかし、それを無意識に言い訳としてきたのではないだろうか。

今後、そんな言い訳はますます通用しない時代に突入してゆく。

電気然り、食の安全然り、年金然り、医療然りだが、
保障されていたはずのものたちが次々と崩れ始めている。

我々の生活は、
「誰にしてもらっているかは知らないが、してもらっていること」
に溢れているが、これからは知らないままにしていたぶんだけ
きっちりと、おつりが返ってくる時代に入るのだ。

それがいかに理不尽でも、当然の権利だったはずのものでも。

そこで僕は、これからの生活や仕事を、
それらのあらゆる可能性を、
さまざまな人々から集約できる場に変えたい。

つまり、シンクタンク的な住宅兼仕事場を建てたい。

自分自身で知れることを知るために。
自分自身で負える責任を負うために。

誰にしてもらっているかを知ることのできる生活圏を生み出すために。
誰かを変えるのではなく、自分自身が変わる生き方のために。

そのための僕のこれからの行動のすべてを
「旅」あるいは「次の旅」と呼びたい。