追記「あらゆる可能性」とは


たとえば今日、こんなことがあった。

いつも行く喫茶店の隣に住むおじさんが、
自宅の木に農薬を撒こうとしているのを見かけた。

「わ、農薬だ」と思った。

つまり「マイナス印象」ということだ。

いつもならそれっきりで、明日には忘れて終わりだっただろう。
しかし、これからはそれで終わりにしない。

まず、その自分の「マイナス印象」は正確なものだろうか。
自分は農薬のことについて大して知らないのに、
なぜそのおじさんを偉そうに心の中で断罪しているのだろう。

これからは、少なくともそれくらいのことは考えようということだ。

ものごとを単なる印象で済まさないこと。
それは、当たり前のことようで、あるいは出来ているようで、
むしろほとんどの人が出来ていないのが実際のところ。

もちろん、「農薬を詳しく調べなくてはならない」
ということを言っているのではない。知らなくてもいい。

ただし、知らないなら知らないと思えばいいのだが、
「印象」というものが恐ろしいのは、
知らないのに、まるで知っているかように
人やものごとを裁いてしまうのだ。

だからそれを終わらせなくてはならないのだ。

まるで言葉遊びならぬ、心遊びのように聞こえるかもしれないが、
じつはこういうことこそが未来を変える基のように思えてならない。
一見、心遊びのようでも、後になって巨大な変化が生まれてくるものだ。

なぜなら、この「日常の感じ方」を変えることは、
自分の言動が変わることに直結しているからだ。

いくら政権や東電を批判したところで、
自分自身が変わるわけではない現実を考えれば、
自分自身の日常の感じ方を変えるほうが、むしろ実質的、近道といえる。

たとえば、農薬野菜と無農薬野菜では、明らかに後者の方がいいだろう。

では、なぜ農薬があるのか。

日常我々は、簡単に「好印象」と「悪印象」を自分の中で生んでしまう。
無農薬が「好」で、農薬は「悪」だ。

すると当然、世の中で「無農薬」の呼び文句が流行る。

しかし、それは採算などの関係から「どこまでを無農薬とするか」の
サバ読みになっていくわけで、本当の無農薬に辿り着くわけではない。

当たり前のようだが、ただ「好悪」の2つに分けるのではなく、
両者のメリットとデメリットを知ることが必要だ。
そうしないと、無農薬のデメリットである
「労力や手間」、「採算性」などの問題は解決しない。

極端な話かもしれないが、
もし我々が、本当にその問題解決を望むなら、
「スーパーに行けばいつでも買える便利さ」は失われるかもしれない。

我々の側にも何らかの「労力や手間」の分担が要求されるということだ。
それが嫌なら、世の中に純粋な無農薬社会を要求するなということだ。

つまり、我々はこれまで
自分が消費するものを作ってくれる人々に対し、
おしなべて「傍観者」の態度をとってきたわけだが、
喫茶店の隣に住むおじさんが農薬を撒こうとしていたのを見かけたとき、
それを「マイナス印象」で終わらせないように意識するだけで、
人はこれだけのことを思うこともできるのだ。

東電や農薬を断罪する「傍観者」を卒業し、
つねに実質的・現実的なプラス面とマイナス面を見るクセをつける。

自分が東電社員だったら、果たして原発をやめられただろうか。

自分が農家なら、果たして簡単に無農薬栽培に踏み込めただろうか。

そう考えるクセをつける。

そうしなければ、本当に原発や農薬のない生活は
逆に手に入らないということを、
僕たちはそろそろ知らなければならないと思うのだ。

知らないのに「単なる印象」で裁き、
その改善は他人の責任と「傍観」するクセに気づいた人の数だけ、
日本が変わることが出来るのだということに、
僕たちはいい加減、気づかなければならないと思うのだ。