『食』
〜目指すべき手本〜



では、日本が鈍感・楽観から脱して目指すべきこととは何だろうか。

その答えは、日本が既に出来ていることの中にもある。
それが、日本の「食」。

いま、海外からの評価もうなぎのぼりの和食。
海外旅行で驚かされたのが、僕が行った範疇では
いまやお箸を覚束なく持つ国がなかったこと。

中国料理や韓国料理の影響を考慮しても、
それが和食の影響だろうと思えるのは、
つい最近まで覚束ない国が多かったことだ。

突然なのだ。
突然、普通にみんながお箸を使いこなすようになったのだ。

その背景には、どうしても中国料理や韓国料理ではなく、
和食の急激な浸透があると言わざるを得ない。

『和食=寿司』のイメージも卒業しつつある。
それ以外の日本料理にも興味を持ちはじめているのだ。

日本人である僕の感想でも同じことが言える。

海外に行って和食に飢え、「お寿司が食べたい」と言う人は初心者。
そのうち、日本の洋食にさえ飢えるようになる。
たとえば、アメリカやドイツで分厚い肉ばかり食べさせられているうちに、
しゃぶしゃぶのように薄い肉が食べたくなるのだが、
それにとどまらず、僕のように酷い例だと、イタリアのパスタよりも、
地元のパスタのほうが数十倍おいしく感じてしまうようになる。

しかし、それもまんざら日本人ならではの症状ではないらしく、
NHKCOOL JAPAN』に出演している外国人たちも
外国料理を日本で食べると、日本のほうがおいしい場合が多いと口を揃える。

これはもはや事件だ。
そこまで世界を網羅し、凌駕する料理など、世界のどこにあろうか。

じつはこの和食が、今後の日本における課題の雛形そのものなのである。

鈍感・楽観病の短所とは、長所でいうと『尊敬力』。
海外のものを、日本人ほど尊敬をもって
受け入れられる国民は他にいないのだ。

それが結果としてとんでもない結果を生み出したのが、
「食」の分野だったということなのだ。

ということは、残るは「衣」と「住」ということになるのだろうか。
仮にそうだとすると、我々の取り組みもそうであるように、
いま特に「住」の深化が急がれているという見方も出来るだろう。

日本人がさまざまなものを自身で体感して尊敬し、受け入れた結果、
世界の縮図とも言い得るほどにまで昇華した「食」に対して、
「住」は全くの逆、初歩といっていい段階にある。

多くの日本人は、この論に対して、
「そもそも海外とは気候が違う」とか、
「価格が違う」などと反論するが、
それは「食」でも言えたはずの障害なのだ。

いま「住」で色々と調べているように、
「食」もある意味で「温度差」であり「湿度差」。
いわば気候差的なものなのであり、
「住」のカテゴリーで取り組まなくてはならないことと、
本質的に何ら変わらないのだ。

このことを踏まえると、僕ら日本人の「住」も、
「食」と同じ経緯を辿り、昇華する必要性と、
昇華できる可能性とが、本来備わっているという見方は、
全くの絵空事ではないのだ。

まず、「食」に比べて人任せすぎる。

次に、「気候が違う」と言いながら、
アメリカのものは無批判にとり入れすぎる。
あるいは、アメリカ以外のものとなると、
一般にはイタリアやフランス、ドイツくらいしか
メジャーではなく、勉強が足りないと言ってもいい。

もっと世界の建築を一般化すること、
もっと日本建築自体を一般化することが必要だ。

この二者は、立体的にものを見る力があれば矛盾ではない。

ここで言う日本建築とは、
和風のイメージに限定された平面的なそれではなく、
むしろ世界を尊敬し、受け入れる能力を言うからだ。

じつはもともと日本建築とは、
その時代なりに世界を受け入れ、
矛盾させずに凝縮させて来た世界の縮図、
日本人の『調和力という知恵』そのものなのだ。

それが、一時代を過ぎると、
大正昭和の和洋折衷建築のように、
洋風に見えた当時よりも一段和風に見えてくるというのが、
和風というイメージの正体・仕組みであることに着目すべきであろう。

外国一カ国だけではなく、世界全部を受け入れ、調和させるというのは、
奇抜な取り組みどころか、日本の伝統そのものだった。

我々の取り組みは、まさにこれと同根なのである。

いずれ、なんらかの形で
「住」を「食」から学ぶという
コンテンツやカテゴリーはアリだろう。

そうすることで、直接「住」にまつわることを
調べるだけでは見えて来ない「雛形ハウス」の輪郭が
明瞭になる可能性は、決して低くないはずだ。