『深化』
〜日本の技術力の特徴〜



これまでに出会った武藤教授や橋本会長らの技術は、
当然のことながら、あり余る資源を前提としたものではない。


東北のクライシスを一つの契機として動き出した僕たちにとって
当たり前すぎる前提だが、重視しなくてはならない。


どう重視すべきなのか。


じつは彼らの技術は、「進化」以上に
「深化」の特徴を帯びている点だ。


この両者の差がどう重要なのかというと、
「深化」のほうが数段価値が高い。


経営の話でわかりやすく言うならば、
たいした理念のない起業者が、時流を当てて大儲けした場合、
収益的な結果だけ見れば、会社は「進化」したことになってしまう。
しかし、時流が過ぎた後も持ちこたえるには、
この数字上のものでしかない「進化」は全く無力で、
起業者の理念の一段の「深化」が必要になってくるだろう。
それが成功した場合、もう一段の「進化」がありえてくるわけだ。

つまり、じつは「進化」はあくまでも結果論であり、
実体的ではないということである。

実体は「深化」なのだ。
「深化」は「進化」なしでもあり得るが、
「進化」は「深化」なしにはあり得ないのだ。

20世紀の発展は、
あり余る資源を前提とした直線的な「進化」だったわけだが、
そのツケが原発事故、環境汚染、
世界経済の行き詰まりとしてかえってきている時点で、
「進化」ではなかったという議論さえ成立してしまう。

何をもって「進化」とするかの熟慮・呻吟、
すなわち「深化」のない結果論でしかなかったからだ。

はなからあり余る資源が前提ではなかった日本は、
早くから無自覚に「深化」をしてきた、
あるいは「深化」を余儀なくされてきた部分がある。

それが東北のクライシス以降に出会うこととなった
武藤教授や橋本会長らの技術に
特徴的に反映されている点は、実に重要なのだ。

僕ら「ZERO」プロジェクトは、
今後の展望を探る立場からも、
この「進化」と「深化」を分けて洞察しなければならない。


そして、「深化」にこそ
その答えを探してゆかなければならないのだ。


仮にその判別が難しくても、結果論としてそうなるだろう。
というのは、そもそも僕ら自身が、調査する時に
そのアイデアや技術が「深化」に根ざしているかどうかで、
信憑性や、有用な情報かどうかを感じている部分があるからだ。


この、漠然と感じている信憑性・有用性の有無に名前や文章をつけると、
「ただの『進化』か、『深化』に裏付けられた『進化』かの差」
ということになるだろうと思う。

そして、そこに矛盾を感じる日は、結局こないと思うのだ。